巨視微視


工業大学新聞に掲載された巨視微視です。

工業大学新聞971号(2016-10-05)

 先日、幕張メッセで開催されたTOKYO GAME SHOW 2016に一般参加した。会場内で多く目についたのはやはり、最近よく話題になるVR(Virtual Reality、仮想現実)に関連するコンテンツである。機器の性能や画像処理技術の向上に伴って、より手軽に楽しめるようになったVRであるが、それを目にした私の脳裏に浮かんだのは、以前見られた「3Dバブル」である。当時は3Dに関連する機器やコンテンツが多く存在したが、いまや当時のその面影は見られない。

 近年は特に一つの技術やコンテンツの寿命が短い傾向が強く見られる。これが決して悪いというわけではないし、需要が失われた以上やむを得ないことではあるが、それらが十分に成熟しないまま枯れていく様には一抹の寂しさを覚える。

 その時は需要がないものであっても、枯れた技術は次の技術への礎となる。ただ循環が早いだけでは、進歩の幅は小さいものとなる。形のあるものだけでなく、形のない「もの」をすぐに捨ててしまう今の時代に、このままでいいのかと疑問を感じる。

工業大学新聞970号(2016-7-13)

 7月10日に第24回参議院議員通常選挙の投開票が実施された。今回から選挙権を与えられる年齢が18歳まで引き下げられた。新たに選挙権を得た本学学生のうち、どれほどの割合が投票したのだろうか。

 若者の数が減っていると言われ続けているが、これが影響するのは経済や産業だけではなく、「若者の民意」が反映されにくくなるというところにも出てくる。世代間で反映される意見に差が生じるのはいかがなものであろうか。

 何よりもあってはならないのは、与えられた機会を利用して自分が望むものの意思表示をせずに、後に不満を述べたり批判をすることである。自身に与えられた権利を行使しなかった者に、後々になって自分の思い通りにいかないことを主張する権利はない。投票をしないということは、その選挙で選出された人が任期を迎えるまで何をしても構わないという一種の意思表示でもある。

 あくまで権利であるから、必ずしも投票に行かなければならないというわけではなく、それを放棄することもまた権利である。しかし、自分の選択が遅かれ早かれ何らかの影響を自身に及ぼすことを十分に念頭において欲しい。

工業大学新聞921号(2008-10-01)

 今年も夏休みが終わってしまった。夏休みが始まる前は講義や実験、レポート、試験からの束縛が無くなり、自由な時間を思う存分持てると期待していた。しかし、いざ夏休みが始まってみると束縛からの解放感と実家に帰省した時の安心感で充足した一方、何か物足りないと感じるようになった。夏休み初日はほとんど何もしないでも満足していたが、次の日には何もしないこと自体が退屈となり非常に苦痛となったからである。

 それからは退屈しのぎに家業の手伝いをアルバイト代わりに朝と晩に毎日していた。それでも日中はやることがなく、サイクリングや買い物、TOEICの試験勉強などで暇な時間をなるべく無くそうとした。しかし、これでは講義期間中とほとんど同じ生活ではないかとふと思った。夏休み前はあれほど束縛を嫌い、夏休みは何もしたくないと思っていたのにもかかわらず。

 何かをしている時でも退屈さを感じる時は頻繁にある。それでもただじっと何もしないでいる時より退屈さは格段に軽減するから人間は何か行動せずにはいられないのだろう。学校での勉強や会社の仕事はほぼ義務みたいな物であり、時には鬱陶しいとすら感じる時もある。けれどもこれらは人間の退屈さを無くそうとする「本能」に近い行動様式を満たす手段としての一面を持っているとも考えられるのではないだろうか。

工業大学新聞920号(2008-07-01)

 梅雨の時期、雨が降るとアマガエルに出くわす気がしてしまうのは田舎育ちの宿命か。東京でエンカウントしたことは未だ無い。田舎では奴らは頻繁に、時に立体的に時に平面的に路上に出現した。突然の邂逅に踏んだり蹴ったりしそうになるのを慌てて避けようとしてバランスを崩し、踏んだり蹴ったりな目にも遭わせてくれる。先日、同郷の友だちが奴らを可愛いと評した。青いつややかな肌とつぶらな瞳がいいらしい。確たる理由はないが奴らに好印象を抱いていない私にとって、友人が示したその評価は新鮮であった。

 一旦嫌いだ嫌だ不快だと評価してしまった対象の評価を自ら改める機会はそうない。否定的評価を下したものについて熟考するという自傷的行為を好む人は少ないだろう。そんな中、他人の異なる捉え方に触れることは評価を改める一つのチャンスだ。それは新たな側面を発見する手立てになる。好きになるところまでは行かなくても、少し温かい目で見ることくらいはできるかもしれない。

 評価を改める必要性が必ずしもあるわけではないが、嫌いなものは少ないほうが暮らし易い。冷たいものばかり選びがちなこれからの季節、たまには温かい視点を探してみるも悪くない。そうすれば真夏の蒸し暑さや、講義中の工事音、昼飯時の二食前も、きっと生温い目で見ることができるはずだ。

工業大学新聞919号(2008-05-25)

 「原子」や「電子」というものがあるということを、はじめてきちんと教わったのは、中学校の理科の授業であったと記憶している。私たちの身の周りの物は、みんな原子という目に見えない微粒子から構成されていて、原子核の周りを電子がぐるぐる回っている。そのようなことを理科の先生から教わった当時、原子や電子といった微粒子が「ある」ということを素直に受け取って、テストの空欄を埋めた。

 原子なんて本当はないなどという大それた主張がしたいわけでは無論ない。いまもかわらず、原子はあると素人並に信じている。ただ、いまになって思うのは、なぜあのとき自分や周りのクラスメイト達は「目に見えない微粒子」という概念を、すんなり飲み込んでしまえたのかということである。自分の身の周りの「目に見える」物が、「目に見えない」小さな「物質」で構成されているという事態に、どうして驚きもせず、躓きもしなかったのだろうか。

 近代的な原子説が確立されたのは十九世紀初頭だというが、万物の構成要素に関する議論は、有名な「四元素説」に代表されるように、すでに紀元前において見ることができる。どうも、こうした「物の構成要素」といった概念には発端がないのではないか、という気がする。もっと言えば、私たちは誰かに教わる前から、「目に見えない」世界を描写する準備ができているのかもしれない。

工業大学新聞918号(2008-04-01)

 動詞「感じる」の用法は様々である。視線を感じる、風を感じる、ストレスを感じる、季節を感じる、等々。「感じる」と表記することが可能な現象はあまりに多岐に渡るので、日常会話にいちいち「感じる」を付していたら辟易しそうなほどである。

 例えば、感情と呼ばれるものに対して「感じる」と表記することはごく一般的である。「怒りを感じる」「悲しみを感じる」といった表現には、日常的に度々お目にかかる。しかし、これらの表現はいささか不恰好であって、通例「怒る」「悲しむ」といった動詞が単独で用いられる。「おなかがすいた」とは言っても、「空腹を感じる」とはあまり言わない。

 「感じる」を用いることが可能であっても、単独で別の表現があてがわれている例は、探せばいくらでも見つかる。使用頻度が高いほど「感じる」が省略される傾向にあるといっても過言ではないのではないか。私が思うに、その最たるものは色や音や臭いに対する言明である。

 色に関していえば、それは「赤い」とか「白い」と言われている。これらは動詞ですらない。単に物の表面が何色であるか、その性質が云々されているだけである。しかし、「色を感じる」と表現することもまた可能なはずだ。風を感じるときのように、色を感じてみよう。ためしに「私は今、ワイシャツの生地に純白を感じている」と言って御覧なさい。ほうら、気持ちいいでしょう?

工業大学新聞917号(2008-02-25)

 助動詞「べし」を辞書で引くと「義務づける意味」と記載されている。そこで再度「義務」を引くと、今度は「なすべきこと」との記載である。辞書上よくあることだが、明らかに循環している。ムズムズしてしまった人のために、「べし」について私見を述べてみよう。

 幼い子供が「べし」に類する語の用法を学ぶ場面を想像してみるに、「なすべき」行為群と「なすべきではない」行為群の分類を学ぶだけでは、まだ「べし」という言葉は機能しない。子供は、褒められたり叱られたりすることを通して、それら行為が自らに及ぼす結果のみならず、行為者に対する適切な反応を学んでゆく。単なる行為者としてではなく称賛者・非難者として、「べし」を共有する大人たちの成員に成長してゆく。

 このような次第であるから、大人たちに「なぜ」と問いたくなる早熟な子供の落胆は不可避である。「べし」は個人の視点からではなく、はじめから「みんな」の視点に適ったものとして発せられる。加えて、単に行為することのみならず、同じ行為に対して「べし」を語ることをも要求する。真に規範の成員となるためには、規範に従って行為するだけでなく、同じ規範の言語を語らなければならない。「べし」という表現は、「あなたもこれを『べし』とせよ!」という意味を持っている。しかも、少なくとも意味上は「みんな」の要求として個人から発せられる。

工業大学新聞916号(2008-01-15)

 顔に性格が反映されるかはさておき、事実われわれは人の顔から多くを判断する。顔にはいつも印象がつきまとう。我々が日常的に下す人相の判断は、明らかに「推論」とは種類を異にする。

 思考が介在しないとはいえ、判断には根拠があるはずだ。パーツの位置やシワなどがそうだろう。人相の判断はいかに行われるのか。これは研究の対象になり得る。だが裏を返せば、研究しなければわからないのであり、われわれは現に「判断」しているにも拘わらず、根拠の詳細は隠されている。

 紙上のインクの染み、私はそれを特定の意味に解する。この場合、染みの形状は決定的要素に数えられる。インクの染みが単なる染みではなく文字であり得るのは、まさに染みがその形状であったからに他ならない。ならば、私が染みを読解できるのはなぜか。文字を学んだからだろう。では次に、文字(染み)を特定の物や状況に「結びつける」ことができるのはなぜか。と、ここまで来ると行き止まりで、「先天的に」なのである。

 読み方は学びうるが、読むこと自体は学び得ない。先ほどの人相に関して言えば、私は確かに人相を読むことは学んでいない。しかも読み方すら学んだ覚えはないのだ。詳細は隠されている。これは一般に「直感」と呼ばれているものに相当するだろうが、これほど反復的に現れる事例は他に見当たらないし、実は結構当てにしている。

工業大学新聞915号(2007-11-25)

 音は押しつけがましい。直視したくないものがあれば、顔を背けるか目を瞑るかすればよいが、耳にシャッターはついていない。したがって、音を遮断するためには耳栓等で耳を塞がなければならず、難儀である。

 「目障り」「耳障り」という言葉があるが、これらの日常的な用法は、視覚的・聴覚的という区別以上の異なり方をしている。「目障り」が形容するのは人とか物であり、「耳障り」が形容するのは音である。また、「耳障り」は音そのものに不快感が伴う場合に用いられることが多いが、「目障り」の場合このような純粋な意味で用いられることは稀である。「目障りな存在」と言うとき、それが見えること自体に不快感が伴うというよりも、むしろ誰かを侮辱したり、「あっち行け」「どかしてくれ」という意図を間接的に表明するような意味で用いられることが多い。本当に目障りな場面に出会うことが少ないからこそ、「目障り」の侮辱語としての破壊力はすさまじい。

 それに「視覚的な不愉快さ」とは想像するのも難しい。ハエなどが視界を猛スピードで飛び回っているような場面だろうか。もしそのような場面に出会ったなら、われわれはハエを殺したり、部屋を移ったり、目を閉じたりすればよい。一方、耳障りな音のせいで気分を害されたり、集中力を削がれたりという経験は日常的によく起こることだし、対処もそう簡単には行かない。音源を攻撃するわけにはいかなかったり、耳障りな音は大抵「うるさい」ので、部屋を移っても無駄だったり、目のようにシャッターを下ろすこともできない。

 味覚や嗅覚は音よりもさらに不快感を伴いやすいが、これらに煩わされることは比較的少ない。不味さを感じたくなければ、舌の上に何も載せなければよい。悪臭への対処は場合によっては音よりも困難だが、幸い人間の嗅覚はあまり鋭くなく、「臭いがする」と言うほどの場面に出会うことは少ない。不快音は「頻度」と「対処の困難さ」を兼ね備えている。そして、それらのほとんどは「人為的」である。

工業大学新聞914号(2007-10-01)

 他大学に通っている高校の友人からメールが届いた。「久しぶりに会わないか」と。彼とは卒業以来一度も会わず、私も会いたくなったので再会した。

 再会後彼と大岡山キャンパス内を散歩しながら他の友人たちの現在の状況、大学生活など様々な話をした。そして成人式でまた会おうと言って彼と別れた。

 その後彼と話している間に高校時代には感じなかった妙なよそよそしさがお互いから出ていたと感じた。しばらく会わなかったと言っても時々メールをしているのに。メールの文中ではそのような感じをお互い全く出した事はなかった。だから顔を合わせて話した時に二人とも思いがけずよそよそしさが出てしまったことを意外に感じた。

 考えてみると、メールでは相手の人間に対してというよりメールで伝えたい事や返事に意識が集中し、人間とコミュニケーションしているという感覚が希薄になってしまうのではないだろうか。一方で人と顔を合わせて話をすると口調や動作、雰囲気などメールでは感じ取れない情報を受け取る。それにより感情が伝わって相手の人間を意識し、人間とコミュニケーションしていると強く感じる。私は彼とメールをしているがコミュニケーションというよりもメールの受け答えをしていただけではないかと思う。

 メールは非常に便利だが伝えられないこともある。本紙にも伝えられないことがある。

工業大学新聞913号(2007-07-01)

 今年も梅雨がやってきた。不穏な空模様の日が続き、道行く人が手に傘を持ったまま歩く姿をよく見かけるようになった。梅雨が明けても、夕立ちや台風などでしばらくは傘のお世話になることだろう。

 雨のじめじめした不快感と相まって、時々他人の傘が非常に迷惑に感じられることがある。駅のホームなどで、傘の先端を真後ろに突き出しながら歩く人が少なくない。突き刺されそうな恐怖感や威圧感と同時に、もしも急に走ってきた子供に当たってしまったらという不安を感じる。

 しかしながら、傘がぶつかって怪我をしたという話はあまり聞かず、ただの杞憂なのかもしれない。肩がぶつかっただけで怒り出す若者のように自分が過敏になっているだけのだろうか。そういえばホームの移動はいつも早足で、少々気が急いていた。

 逆に、気づかないうちに自分が他者に迷惑をかけていることもあるだろう。自分の行動はなかなか客観的に判断できないものである。たとえば楽器などは、演奏するのに夢中になってついつい音の大きさを忘れがちになる。また、講義中に小声で相談しても、周りに気を使っているようでかえって他の学生の集中力を削いでしまう。

 少々のことは気にならないような良い意味での鈍感な心と、自分の行動を客観的に省みられる敏感な心との両方を持てれば、少しは梅雨の不快感も和らぐのかもしれない。

工業大学新聞912号(2007-05-25)

 柳沢厚労相の「女性は子供を産む機械」という発言からしばらくたつ。その発言は女性を機械とみなすものとして批判された。確かに、女性には生物学的な妊娠・出産の機能をもっている。けれども、生殖という活動には両性の関与が必要である。生物学的なもの以外にも出産・妊娠にはさまざまな人の協力が必要だろう。それにもかかわらず、この発言は女性に妊娠・出産という機能を集中させている。さらに、いつの間にか男性には責任のないものとされる。

 女性にその機能を集中させるものとして、一つは避妊技術、知識が普及したことだろう。例えば、人工妊娠中絶が合法になったのが日本では一九四八年である。それ以降避妊技術によって妊娠・出産を容易にコントロールできるようになった。そのことによって、避妊法普及以前では、生活の営みによって女性が妊娠・出産するのに対し、普及後では女性は妊娠・出産できる機能を有する装置・機械とみることが容易にできるようになった。生活と生殖を容易に分離して考えられるようになった。

 生活と生殖を分離することは女性にとって負の面がある。生活については女性は主体的に自由に行動できるが、生殖に関しては機械とみなされることにより、自分を人間として感じることができない。技術的には生活と生殖を分離することがあっても、意識の上ではその二つを融合する必要がある。また、実際に多くの人によってそれがなされていたと思う。

 さらに現在では避妊法以外の新しい大きな技術がある。体外受精技術である。不妊治療として普及したこの技術は本来の使用領域を超えることができる。精子・卵子・受精卵などを冷凍保存し望む時期に出産(代理母によるのも可能)することができる。これは性と生殖の分離といえる。このような技術が倫理的な問題をクリアして、普及したとしても、誰が妊娠・出産・養育に関与するのかを認識し、誰がその責任を負うのかを考えることにより、これから、機械によるものではない新しい家族ができあがるだろう。

工業大学新聞911号(2007-04-01)

 「子供は動物と同じ」「過ちは痛みとして体に叩き込まねば愚かな子供は何度でも間違いを繰り返す」英国、ヴィクトリア時代の貴族の邸宅を舞台にした船戸明里の漫画、「アンダーザローズ」の登場人物の台詞である。

 この時代遅れな老貴婦人の言葉に若い家庭教師の主人公は激しく反発し、結果的には彼女を屋敷から追い出すことになる。しかし、改めて教育について考えたとき、どれだけの人がこの問いに確たる信念を持ってNOと言えるだろうか。

 近年、いじめ自殺や少年犯罪などが耳目を集めるにつれ、子供のしつけや教育、また教育機関の問題についても大いに議論を呼んでいる。昨年は教育基本法の改正が行われ、内閣府に設置された教育再生会議も文字通り「教育の再生」を目指し活動を始めている。

 しかし、ゆとり教育の迷走や愛国心に対する賛否などを見てもわかる通り、教育に関する問題は大抵簡単に纏まることがない。何故こんなにも意見が割れるのか。問題の根底には教育に関する「土台の弱さ」がある。

 最初に挙げた体罰を例に取っても、体罰自体が良いか悪いかを明確に判断できる根拠はほとんどないのが現状だ。体罰と聞くとすぐに最近増加傾向にある虐待ケースを連想してしまうが、自分勝手に暴力を振るう児童虐待とは本来別の次元にある。時と場合の問題と言ってしまえば簡単だが、核家族化の進む現在、その時と場合を判断するにも自分の過去を振り返るくらいしか手段はない。家庭それぞれで多様性があればいいという意見もあるだろう。しかし、甘やかされ過ぎた子供の起こす身勝手な行動や、父親に厳しく接されて自宅に放火するに至った事件などを見ると、どこまでを許容すべきなのかの線引きは必要に思える。

 起きた問題の根源を探れば社会的な構造や複雑な要因にぶち当たり、起こした行動の成果を見ようにも時間がかかりすぎる、言わば「正解無き教育問題」。そこに自ら進んで足を踏み入れた安倍内閣がどのような答えを見つけるのか。結論が出るまで静かに見守っていきたい。

工業大学新聞910号(2007-02-25)

 風邪を引いた。体がだるく胸苦しい。咳はひっきりなしに出るのに、喉の奥の痰はまったく出てこず、呼吸のたびにヒューヒュー鳴る。そういえば昔体調を崩すとよく考えていたことがある。「崩す前ってどんなんだっけ」

 たとえば、頭痛がするときなど目を使う作業が辛いから、本も読めずテレビも見られない。頭に響くから運動ができないし、音楽も聴きたくない。頭を押さえて寝ているしかないのだが、痛さで眠れないことも多い。まさに一日が台無しになってしまう。これが治ればどんなに幸せかと思う。健康な日々が待ち遠しい。頭痛がしないって素晴らしい。だがしかし、痛くなる前ってそんなにいい思いをしていただろうか。ただ何も感じていなかっただけじゃないか。遠目にはこんなに有難く見える健康なのに。

 健康は感じない。私たちは体のほんのささいな不具合でも明瞭に感じ取って、一日中それを気にしている。靴ずれや巻き爪がその典型だ。反面、万事がうまく行っているときは何も感じない。苦痛はこんなに自己主張が激しいのに、健康の場合は苦痛というパースペクティブからしか価値があるように感じられない。

 苦痛は無いほうがいいに決まっている。たとえ苦痛が遠のくことで得られるのが「何も感じない」ことであっても。辛いことに耐えた先に何も無いとしても、苦痛は消さなければならない。合格しなければならない。

工業大学新聞909号(2007-01-15)

 オープンコースウェア(以下OCW)は何のためにあるのだろうか。「世界中の自学者のために自由で開かれた教育リソース」これがOCWの理念である。

 そこで東工大のOCWを見てみると、講義資料がある程度。シラバスにリンクが張ってあるだけという全くやる気がないのもある。これが東工大の素晴らしい教育リソースとは笑わせてくれる。

 かつて、ある教授に取材した時OCWについて面白い話を聞いた。曰く、『どうしてもはずせない用事などで授業に出られない学生のために講義を録画し、OCWに載せるべきだ。確かに、講義資料をOCWにあげる場合はその資料の著作権の問題や、研究で忙しい教授がOCWに資料を公開する時間をとられる問題がある。けれども、それは人を雇えばどうにでもなる話ではないか』と。

 その理念に従えば、積極的に講義の内容をOCWで公開するべきではないか。見る限り今の所OCWは自身の使命をしっかり果たせていない。講義資料も必要なら人を雇ってでもきちんと公開するべきだ。そもそも、大学は教員が研究するだけの所ではないのだから。

 録画された授業が見られるようになれば、学生にとっても授業でわからなかった所をわかるまで何度も見ることができるようになるし、一時間半も席にきちんと座って教員の話を聞くのが苦痛な私も授業に出なくても簡単に単位を獲得できるのに。多分。

工業大学新聞908号(2006-11-25)

 東工大ではよく、桜並木やスロープなどで子供連れの母親たちを見かけることができる。子供たちが遊び、それを母親たちが見守る光景はとても微笑ましいもので、キャンパスライフで荒んだ心が癒されるようだ。しかしながら、子供たちの将来を思うと少し暗い気分になる。

 安倍政権の最重要法案とされている教育基本法改正法案が可決される見通しである。いわゆる愛国心をめぐる議論はご存知だろう。時代の流れは個人の規律訓練から環境管理型社会の構築へと移行している一方で、教育の現場に国家などという幻想を掲げる必要はあるのだろうか。確かに戦後民主主義は様々な問題や矛盾を抱えており、既にその耐用年数を過ぎたといっていいかもしれない。しかしながら、更に昔の、既に一度失われた社会規範を復活させたとしても問題が解決するとは思えない。この法案改正に賛成または反対側、どちらの陣営にも過去に縛られている人がいるように見える。

 そういえば、自らの国家や民族に固執する右翼系の若者が世界的に増えているという事実も、多少気になるところだ。様々な原因の一つとして、歴史と現在の自分とを切り離して考えるためとの声がある。つまり、自分をとりまく現実が、歴史という大きな時間軸の中でどのような意味をもつのかを考えることがないためとの指摘だ。過去との繋がりが弱いため、反省や後悔することも少ない。同時に、それは現在の行動が、未来にどのような影響を与えるのかも深く考えられないことを意味する。

 未来は見えない。だから暗く感じることもある。人は不安ながらも過去を学び、現在を見つめてよりよい未来を紡ぎあげようとする。だが、未だに先人の影に取り付かれた老人や現在しか見ない若者が、このまま未来を真剣に考えることがないのであれば、目の前の子どもたちの未来を任せることは無理だろうな、と思う。

 科学や技術を学ぶ我々は、それらが未来において人々にどのような影響を与えるのか、ほんのたまにくらいは真剣に考えてもいいと思うのだ。

工業大学新聞907号(2006-10-01)

 「お茶の時間」といえば、作業を中断して一息つく時間を思い浮かべるが、忙しい時ほど自分でお茶を淹れて飲まなくなる。市販の飲料に頼りがちだ。

 近頃はペットボトルの緑茶飲料が目立つ。コンビニの飲料コーナーには数種類の緑茶飲料が並び、その顔ぶれも頻繁に変わる。各飲料メーカーは製品開発に力を入れ、緑茶飲料市場はここ数年成長を続けている。

 緑茶飲料が人気を博している理由の一つに、消費者の健康志向が挙げられる。緑茶は無糖茶であるうえ、含まれる成分が健康に良いという研究結果も発表された。健康への効能をうたった製品も出回っている。もう一つ、ペットボトルの緑茶が好まれる理由に手軽さははずせない。急須でお茶を淹れるなんて面倒だと思う人も多いだろう。

 しかし、急須で淹れるお茶も捨てたものではない。手間を惜しまず自分で淹れたお茶は格別だ。さらに、茶を淹れ、すするという行為には、どこか優雅で落ち着いたイメージがある。それは単なる水分補給にとどまらない、心を和ませる効果を持っている。ペットボトルのお茶をただ飲むだけでは味わえない良さだ。

 わざわざ自分で淹れなくてもお茶はすぐ買えるが、自分で茶を淹れるといういささか優雅な行為を楽しむことで心に余裕が生まれるのではないだろうか。あくせくした社会の中でこそ一時的な休息ではあるが心安らぐお茶の時間を大切にしたい。

工業大学新聞906号(2006-07-01)

 都内の通勤電車の混み具合は半端ではない。車内でぼーっとしていようものなら瞬く間に流され押し潰され踏みつけられる。僅かな隙間では本を読むこともままならない。この殺伐とした空間に毎日身を置かねばならない日本の通勤通学環境はどこかおかしいと言わざるを得ない。

 そんな環境において救世主となりうるのが携帯電話や携帯音楽プレーヤーの存在だ。狭苦しい周りの空間との断絶を図り、自分の世界に入り込むことができる。それも狭い場所でも自由自在にだ。携帯機の機能の向上、駆動時間の増加を含め、技術の進歩は目覚しく、今なお進み続けてる技術分野である。

 二十世紀後半の科学技術はただひたすらに小型化を目指し競争していた。まさに「小型化は正義!」である。その努力は実を結び、今こうして便利な携帯機の恩恵に与ることができている。今や携帯電話は、電話を超えたあらゆる機能を実装し、携帯電話があればつぶせない時間はないほどだ。

 しかし、携帯電話は人々の暇な時間を消し去るとともに、なにもしない時間を奪っていった。それは何をするでもなくのんびりと過ごせる時間が失われただけではなく、現代人から何もしない時間に耐える力を奪い続けていることに他ならない

 多忙を極める生活の中でゆとりを探し求める人は後を絶えないが、今改めて見直すべきはほんのささいな「無為な時間」なのかもしれない。

工業大学新聞905号(2006-05-25)

 先日、本学の百年記念館で開かれていた展示『ホログラフィー サイエンスからアートへ』へ寄ってみた。展示を見てまわっている時に、解説をしてくれたスタッフによると、ホログラフィーとは薄板でできているにもかかわらず、光の干渉・回折のため、画が立体に見えるもの、視点を移動すると色や形を変えるものである。その特性は古いアートの素材(写真や造型などの古いテクノロジー)には無かったものである。

 ところで、写真や絵画を鑑賞するときは、「鑑賞者は作品に対して垂直の角度の視点で鑑賞する」という暗黙のルールがあったのではないかと思っている。しかし、ホログラフィーの技術を利用すれば、新しい表現が可能である。そんなところへ現れたホログラフィーの影響はパンフレットで「1963年に大きなセンセーションを持って迎えられたホログラムの話題は多くのアーティストに刺激を与えた」と評されている。アーティストたちは、ホログラフィーのように鑑賞者の視点移動による効果を持つアートの素材を求めていたのかもしれない。

 鑑賞者がある程度移動して作品を見ることにより、鑑賞者の解釈の幅が広がることになる。新しい技術がアーティストの創作意欲をつくり出し、新しいアートが生まれる。

 またホログラフィーは社会、制度を変えてきた技術である。例えば紙幣には偽造防止の為にホログラフィーの技術が利用されている。それが紙幣への信用を高め、紙幣を流通させやすくしている。技術がアートを規定していくのと同じように、新しい技術が社会、制度を規定していく。

 その逆に技術以外の要素が技術を要求してきた面もある。紙幣へのホログラフィー利用の例を考えると、資本や国家が偽造防止技術を要求したのかもしれない。技術者はそれらの要求を的確につかみ、それらの要求に従うしかないのかもしれない。しかし、技術者はその要求を満たそうとするだけではなく、技術が社会を規定していくことを広い観点から考える必要がある。

工業大学新聞904号(2006-04-01)

 毎年、強風と共に新しい季節がやってくる。春を迎えて今年も見事に桜が満開である。東工大講堂前の桜並木改修が成功であることを実感できるほど美しく咲く桜は、皆の酒欲をそそることであろう。春といえば、入学式に新歓コンパにお花見。これら毎年恒例のイベントに欠かせないのが酒類だ。

法律上ほとんどの新入生は酒を飲んではいけないことになっている。しかしそれはあくまでも法律上の話。世間的には大学生の飲酒を禁じることは少ない。これは大学生を一応の成年として認めているということである。新歓コンパではためらいもなく酒を勧められ、新入生もあまり気にすることなく飲んでしまう。それで逮捕されるようなことはまずない。

 しかし飲酒に関して全て容認されているわけではない。当然ながら、一気飲みなどをさせ命に危険が及ぶようであれば、薦めた方も罪に問われることとなる。また、飲酒状態で自動車はもちろん自転車を運転することも法律で禁止されている。度をすぎた行為を取り締まることに意義を唱える人はいないであろう。

 ところがここ数年で不可解な法律がいくつか作られているように思える。消費者の安全を守るためという名目でPSE法が作られたが、製品の安全性が向上するわけではないところに疑問が生じる。逆に言えば政府の定めた基準さえ通れば他はどうでもよいともとれるからだ。その上ビンテージ品と呼ばれる中古音楽器の否定に繋がるものでもあった。結局政府は施行直前になって改訂を行うこととなった。

 誰もが決して望まない出来事が社会全体を震撼させる度、法律が整備される。そのほとんどは重罰の方向性を帯びたものだ。それがよい法律であろうと、悪法と呼ばれるようなものであろうと、法の整備は進められる。もし新歓期の飲酒で多数の人が死ぬようであれば、飲酒の取り締まりも本格的になるかもしれない。

 法律による規制とは無関係に、個人が責任を背負わなければならない。それこそが成年として認められる証でもある。

工業大学新聞903号(2006-02-25)

 長靴形と言われるイタリアの「付け根」に位置するトリノで、冬季オリンピックが幕を開けた。その裏で夏季大会に目を向けると、一つ寂しい話がある。二〇一二年のロンドン大会から野球とソフトボールが消えてしまうそうだ。

 野球は日本人にとって人気スポーツではあるものの、世界的に見れば知名度が低いと言わざるを得ない。ルールの相互性があやふやな点など問題も多いが、それでも復活を望む声が国際オリンピック委員会の委員数名からあがった。そこで「復活させるかどうかの議論」の賛否をめぐる投票が行われたのだが、結果は反対多数であった。議論の余地すら許されないらしい。

 実は野球やソフトボールの是非よりも、一度決めたことを簡単に変えることは国際オリンピック委員会の沽券に関わるというのが、反対理由の多数を占めるそうだ。確かにオリンピックの伝統やイメージを守ることは大切であり、それこそが他の大会と一線を画しているのだが、だからこそ面子に拘らない柔軟な判断も必要ではないか。

 一昨年は日本国内でも球界再編を余儀なくされるなど、問題が浮き彫りになってきた。ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)にしても、国内の関心は低い。その上五輪から野球が消えてしまったら、野球の低迷は留まるところを知らないかもしれない。今一度、WBCをきっかけにして五輪に野球の復活を望みたい。

工業大学新聞902号(2006-01-15)

 今年も例年通り各地で成人式が行われた。かく言う私も式典には出席できなかったものの、数年ぶりに会った友人と旧交をあたため、非常に楽しい時間を過ごすことができた。

 総務省によると、今年の新成人は全国で一四三万人で、総人口に占める割合は昭和六二年と並んで過去最低なのだそうだ。また今後も新成人は減少傾向にあり、人口減少の時代はもうすぐそこまで来ていると改めて実感させられる。

 ここ数年、国や各地方自治体では郊外型の大型店舗の出店を規制する動きに出ている。減少する人口を都市に集め、活力を維持しようというのがその主たる目的だ。六本木ヒルズに代表される大規模都市再開発もこの一環である。

 一方、昨年の郵政民営化時にも言われたとおり、過疎地域に対するサービスの維持も重要な問題である。しかし先の都市化の動きを見ると、過疎はもはや問題というより必然的に起こる現象であると言っていいのではないか。街おこしに力を入れる自治体も多いが、そもそも母体となる総人口が減るとなると過疎地域の活性化はそう簡単ではない。

 転居の自由が認められている日本では、当然どこに住むのも当人の自由である。しかしながら、全てを個人個人に任せていては大きな動きを起こすことは非常に難しい。各人の権利を守りながらどのように国の活性化を図るか。これからも国は難しい舵取りを迫られることになる。

工業大学新聞901号(2005-11-25)

 何かしらの事件が起これば、その原因究明に努力が注がれる。たとえば列車が脱線して犠牲者が続出しようものなら、遺族を中心に至るところから原因究明の声が飛び交うことになるだろう。これは当然の成り行きであるし、再発防止や法的な責任追及に必要なことであるからしてさほど異論はない。ところが、それが殺人事件などの犯罪行為における原因究明、すなわち動機の究明となった時問題が生じてくる。

 人々が原因究明に躍起になるのはなぜか。その理由は、それが事件として取沙汰される大層な出来事、二度と起きてほしくない出来事だからである。そして事件の悲劇性の裏に合理的な因果を見つけ出そうと試み、悲惨な過去に決着をつけようとする。原因の究明とは、客観的な出来事としての事件に対し、原因・結果という概念を読み込み、一連のストーリーを構成する作業に他ならない。究明の対象が列車の事故や飛行機の墜落の場合ならば、部品の劣化や職員の怠慢などを挙げ、原因という言葉で括りあげることができるだろう。

 ところが加害者の動機を探らなければならない殺人事件などの犯罪行為、それもとりわけ残虐なものであった場合はどうか。残虐な殺人事件においては、病理性がしばしば論ぜられる。「まともな人間の為す行為ではない」と判断、もとい診断された彼らは、異常者のレッテルを貼られ「治療」が施されることになる。その際、幼児期の虐待・甘やかし・トラウマなどの言葉をあげつらい、加害者が犯罪に至る一連のストーリーが作り上げられてしまう。異常者を異常たらしめる原因をあぶり出し、納得してしまうのだ。

 この物語の構成要素はひどく一般化されたものや、表層的なものばかりであり、当人の思考や思想の細部について言及されることはほとんどない。見渡せないほどに膨大な要素で成り立つ人間の行為を、単純な因果で裁いてしまって果たして良いものか。甚だ疑問である。

 中世の魔女裁判のごとく「異常だ!」と断罪する前に、その暴力性についてじっくり考えたい。

工業大学新聞900号(2005-10-01)

 先日、メッセンジャーで妹と会話する機会があった。内容は大したことではなかったのだが、ふと会話ログを見直してみて驚愕。口調がまるで男のそれと全く変わりないのである。

 確かに昨今では「女性らしい」言葉遣いを耳にする機会は多くない。しかし、改めて会話文として見てみるとの違和感を感じずにはいられないのだ。

 そもそも近代の日本語における男言葉、女言葉の分化には明治から続いた旧学制と大きな関係がある。当時は複線型教育の色が濃く、それぞれ独自のコミュニティ、独自の言葉遣いが定着していったのである。

 昨年ドラマ化された「エースをねらえ!」に登場するお蝶婦人の言葉遣いも、てよだわ言葉として明治後期には女学生の間で確立されていた言葉遣いである。当時の文学者らには粗雑だとして忌み嫌われていたが、それにも関わらず全国に普及した。しかしその流行の力はいまや見る影もなく、現在ではそんな話し方をしている人を見つけるのは野生のパンダを探すより難しい。

 国際的には、階級によって使わせる言葉を差別するのは旧時代的だと言われている。英語も話し方には男女の区別はなく、わずかに使う単語に差がある程度である。しかし、独自の進化を遂げた日本の言葉遣いをなくしたくないと思うのは自然な流れではないだろうか。決して色恋沙汰に縁のない男子学生の妄想だとは思いたくないものである。

工業大学新聞899号(2005-07-01)

 六月二〇日に集積回路発明者で、ICの父として名高いJackKilby氏が死去したというニュースが流れた。集積回路といえば現代生活に欠かせない電子回路で、家電製品には必ずと言っていいほど実装されている電子頭脳である。

 『便利になった』という言葉が似合う性能を持ち合わせているだけでなく、SiやAlといったリサイクルに困らない材料で構成される。さらに言えば、この発明の功績は世界と人々の生活の在り方を変えてしまったと言っても過言ではない。

 史実を見てみると多くの場合に世界を変えたのは、強大な力を備えたものであったり、異界からの侵入であったりする。唯一性と特殊性を振りかざしたイレギュラーな存在は特に、普通という表現で塗り固められた存在をいとも容易く崩すのだ。

 それに対し、生活レベルから世界を変革せしめた集積回路の力強さは学ぶべきところが多い。各々の力は小さくても変化を確実に起こしている。

 何かを変えていけるものは、特殊なものだけではない。ありふれていても確実な変化、小さくても力強いものは、どのような要素が介在する所でも着実に変化を加えていける。そう、「千里の道も一歩から」

 何事も変化を起こさなければ、結実へと成長しては行かない。行動は変化への兆しだ。だからこの言葉を作った先人たちの知性に感謝し、心に刻みながら我々の戦い=試験へ赴こうではないか。

工業大学新聞898号(2005-05-25)

 規模は小さいながらも、新聞の編集に関わるようになってから一年が経った。この一年で様々な人と出会い、様々な話を聞いて、それを記事にした。しかし、どれだけ事実を伝えようと思っても、きっとそれには限界があり、叶わぬときもある。いや、むしろ事実を伝えようと思っていても、うまく事実のみを伝えられることの方が稀なのではないだろうか。

 歴史教科書において、それぞれの国の思惑が交錯している。教科書というものが、教育のためのものであり、また教育がその国に対する愛国心を育てるものというのならば、どの国の教科書も何ら問題はないだろう。自らの国の犯した罪を隠し、また他国の犯した罪を糾弾すれば、自ずと国民の愛国心とやらは高まるからだ。だが仮に、教育の場での歴史はそれでいいとしても、学問としての歴史はそうはいかない。

 歴史を語るのは非常に難しい。それは無数の先人の営みそのものであり、膨大な記録から何を有益なものとして見るかによって、編まれる物語が大きく異なるからだ。これゆえ、歴史という学問は視点によって大きく全体像が異なってしまう。

 このような考え方は、報道ではより如実のものとなる。テレビや新聞などで伝えられる情報は、社会で起きていることのごく一部のことでしかない。どの出来事を、どの観点から切り込むかが重要になるため、伝える側の立場や考えを含んだものにならざるを得ない。報道は真実そのものを伝えることなどない。それゆえ、それぞれの報道機関での相違点を見つけることが、それぞれの立場や考え方を感じる手がかりとなるだろう。また、みな同じような報道しかしないのであれば、それは疑う余地があるはず。

 なにも報道や歴史だけに限った話ではなく、どの分野においても、様々な視点からものを見ることにより、様々な考え方が出来る。それは科学の世界も同様であり、古典的な学問にのみ存在した唯一の真理を求めていては、解決できない問題もあるのだろう。